(写真集あとがきより)



『色に溺れる』


初めて彼女の作品を見たときの衝撃を今でも覚えている。
写されている対象や事象ではなく、色に圧倒された。やわらかな雰囲気に包まれた風景からは、それまで自分が眼にした事のない色彩がその中には存在した。それはたまたま前作の写真集の撮影場所であったポルトガルという場の所為なのかと当初は感じていたが、繰り返しいくつかの異なるシリーズの、彼女の作品を見ているうちに気がついたことがあった。
これは現実の色ではなかったのだ。

もちろん写真であるから描いている訳ではない。実際に撮影している場所もあるし、理想とする一瞬に出会えるように場所も時間も吟味されている。しかし彼女は撮影した時の記憶にある風景の色彩を再現しようとしているのではない。彼女が理想(自身は妄想という言葉を使っているが)とする色に変換させている。
「写真」という言葉に引きずられるように、写真は真実を写し取るもので、なにか手を加えるべきものではないと思う人も多いだろう。報道や記録としての写真はそのような役割を担うべきであるが、人は写真が発明された頃から手を加えてきた。もっとも初期のものは19世紀の銀版写真(ダゲレオタイプ)に色を加えている。もちろん当時はモノクロ写真しか存在しなかったが、絵の具で色を加えて自分の理想とする現実に近づけようとした。
Photographyという言葉を正確に訳すと、実は「写真」ではなく、「光画」という言葉になるという事を知っている人はあまり多くはないだろう。写真は、光が描くものなのだ。

彼女の制作する様子を想像してみよう。慎重に時間と場所を吟味しながらベースとなるイメージをつかむ。「描いているわけではない」と前述したが、撮影する時に光をコントロールし、プリントする時に色彩を選ぶ行為は、「風景を撮影する」というよりも「風景を光で描いている」と言い換える方がふさわしいのかもしれない。

今回の写真集では、時間も場所も異なる3つのテーマを組み合わせて出来ている。その中で「Silent Gold and Singing Black」では金と黒を対比させ、「Wintermute」では夜明けの紺から明るい青への変化を、「Midsummer」では夕焼けの紫から夕闇に移る黒へのグラデーションを捉えている。最初の金と黒は彼女の好きな琳派の絵画から想起させていると言うが、私たちの日常にはなんて微妙な色が存在しているのだろうと改めて感じる。日本の色彩の多様さを表している言葉に「四十八茶百鼠」という言葉さえあるが、彼女の写真を見て、この色にふさわしい言葉とふと思いを馳せるとき、日本人であることを幸せに思うのだ。

彼女は光を使って美しい画を創っている。そして誰も見たことのない彼女の頭の中にだけ存在する美しい風景を出現させる。彼女の美しい妄想の真実に気がついてしまった時、そこの場所に行けば、この風景に出会えるのかという淡い期待は残念ながら散逸してしまったが、存在する訳のないと思いながらも、この色の世界に溺れたいという憧れる気持ちは増している。


東京都写真美術館 学芸員 藤村里美